2011年震災以後の写真

2011年3月11日の震災以後の写真というテーマで話を聴いたことが何度かある。写真に限らずアートの分野でたびたび見聴きする機会はあった。この悲劇の後に何を表現しあるいは記録していけばよいのかという議論だ。そしてこの震災は福島第一原発の事故によって振り撒かれた放射性物質への怖れから自身も被災しているとの感覚を与えていて、これまでにないほどに災害を自らの問題として考えようとしているように思われた。
僕にはあの震災の後に決めた方針がある。徹底的にこの事態を無視しこれまで通りにやり続けること。
あれは大きな出来事であったと思う。あれを受けて何かのメッセージを発するのは人間的なことであるし、そうするべきですらあるかもしれない。心温まるようなメッセージを発する人もいたし、震災を契機にして社会の暗部を告発する人もいたし、狼狽える自分や周囲を観察する人もいた。
僕の好きな歌手ではこの出来事に対して素晴らしい曲を書いた人もいたし、僕の好きなスポーツ選手では力強い応援のパフォーマンスをした人もいた。
だけど僕はそうはしない。そうしたくないしそうする資格も無い。誰にも認められることもなく求められることもなく撮り続けること、それだけが僕のやり方であり僕の持ち得る力だと思う。僕には誰かの物語は要らない。自分の物語も要らない。常に余所者であり疎外されていること。受け入れられることなくぽつんとしていること。そうあることが僕だと思う。誰かを赦したり受け入れることはしない。誰かに赦されたり受け入れられることも求めない。
そういうやり方を通してきたのに、今回だけ特別に何かし得るのだろうか。
震災を無視すること、これが僕のこのことへの取りうる態度だと思う。