アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である

アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である。

アドルノによって提出されたあまりにも有名なテーゼ。たびたび解説されるように、このテーゼは「アウシュビッツにおけるナチスのもたらした大惨事以後は、叙情詩を書くことですら野蛮である。他のあらゆる文化的行為は言うまでもなく野蛮である。文化活動が野蛮であるならば人間の生存そのものが野蛮である。」と解釈される。つまりアウシュビッツのような文明の生み出した壮大な野蛮を乗り越える(弁証法的な方法で)ことなしに生きることは常に野蛮であるのだ。
そして野蛮というのは文明の外として定義されるものだが、文明や文化のうちに野蛮が見出されること、(それ自体はアドルノの告発を俟たずしても明らかだ。)そのような倒錯した状況を我々は生きている。アドルノはしかし進歩の可能性を信じていたし、単に文明の不条理を告発するような単純な思想家ではなかった。彼は文化的な営為を人間的なものとして称揚することもした。彼自身が音楽家であったことからもこの見解は補強されるだろう。文化のうちにありながら文化の外の視点をも持つこと、そのような極端な困難をアウシュビッツ以後を生きる我々に要求した。
僕の関心は、このテーゼが提出された後に撮られる写真とは一体どのようなものであるべきかということだ。
プリントはそれが十分な配慮のもとに作成されたものであれば被写体が何であれ、見る者に美的な感覚を呼び起こさずにはいられない。いや、プリントのクォリティが低くても、美的な感覚を呼び起こす何かを秘めている。*1その意味で写真もまた文化活動の一環であり、アドルノによれば野蛮の誹りを免れえないだろう。
また写真という技術が産業として存立しているものだし、もともとも科学文明の生み出したものだ。
僕が写真を撮るうえで持つべき"minima moralia"とは何であるべきか。アドルノのMinima Moraliaの中で要求されることは実はかなりの困難なことである。それはとてもではないが最小限守られるべき道徳などではない。Maxi Moraliaとでも謂うべきなのがMinima Moraliaの実態だ。そのような極端な困難が人間的な生存には最低限必要であるというのがアドルノの主張であると僕は読んでいる。
その道徳は「ストリートスナップでは相手の人格を傷付けないように気を付けましょう」だとか「被写体に敬意を持ちましょう」だとかそんな次元のものではない。文化の可能性そのものが危機に晒され続けているのだ。
答えは見つからない。

*1:その「何か」こそが写真の神秘なのかもしれない。