写真の終焉

杉本博司は写真が終焉を迎えると言っている。それは銀塩写真が終わるということを指しているわけだ。カメラは残るけれど、写真は終わってしまう。

写真誕生から今までずっと写真と言えば銀塩反応に基いたものであったけれど、光電効果に基いたものへと急速に置き換わっている。単にカメラが結んだ像を記録する装置が変わっただけだと言うこともできるしそれも正しい。ダゲレオタイプと今見ているフィルムによる写真との間に切断が無いと言うのは強弁だろうし、またモノクロとカラーではともに銀塩反応がその基礎にあるとは言っても実際に目にしている画像は銀画像か色素画像かで大きな隔たりがある。これまでも写真には何度も大きな技術的な変化が訪れていて、今回だけを特別視するべきかどうか、疑問に思うのももっともだ。でも、今回こそ決定的な変化が訪れる。

サッカーではボールが以前よりも真球に近付いたことによってキックの仕方が変わったし、竹刀の発明は剣道のあり方を大きく変えたというし、ラグビーなんてあの変なボールがあればこその競技だし、自転車競技は自転車が変わって自転車競技が変容するのを拒否して自転車の形を大きく制限している。道具はゲームのプレイされ方を決定的に変える。道具によって行われるゲームである以上、それは当然のことだ。

よく言われることだけれど、原板が存在した銀塩写真に対してデジタル写真では原板がない。それは一度作られたイメージが際限なく複製されて流通できるということだろう。銀塩写真でもネガ-ポジ法が発明されてからは絵画に対してその複製可能性が重大な論点になったわけだけれど、それでも原板を完全にコピーし尽くすことなんて出来なかった。

写真の真正性は、その原板の存在によって担保されていた。これは偽写真だと言われても原板を出せば、その原板を捏造することのあまりの困難さから、疑惑に対する強力な反論になった。デジタル写真ではそれが失われてしまった*1。写真の真正性に根を持つ神話、つまりティスロンが論じたように「何はともあれ写真は現実を写している」*2、が終わるかもしれない。そこまで行き着かなくても写真が現実の鏡であるという思い込みはこれまでよりも確実に弱まるだろうし実際に既に弱まっている。

杉本のジオラマのシリーズや森村泰昌のセルフポートレートは、写真は真正性の神話を持っているのに、それに敢えて見え見えの嘘を吐かせるという遊戯だった。この写真は嘘っぱちだ、と写真に言明させることで写真が嘘吐きになることから救おうとした。精巧で綿密な準備の上で嘘ですと写真自身に証言させていた。

真正性が失われた写真の世界はどうなるのか、僕には分からない。それがもともとただの幻想であったにしても。
明るい部屋の謎―写真と無意識

*1:もちろん、RAWファイルという原板はある。これの加工と捏造がこれからできるようになるかどうか。。

*2:「明るい部屋の謎」